『学問のすすめ』から名言を厳選!福沢諭吉が本当に伝えたかったことは?

古典
©いっせい

福沢諭吉先生の『学問のすすめ』は、第17編で構成されています。

著作権も切れたので、青空文庫というサイトで全文読めます。難読漢字の一部にルビが振ってあり親切です!ですが、それでも内容的に難しい笑。たとえば、

今在官の人物少なしとせず、私にその言を聞きその行いを見れば概ね皆闊達大度の士君子にて、吾輩これを間然とする能わざるのみならず 四編

大度(たいど):度量の大きいこと 士君子(しくんし):学問、人格ともにすぐれた人 間然:あれこれ批判する という意味です(泣)。

私も辞書を引き引きして、読みました(泣)。

特にこの3編と4編は福沢先生もおっしゃいますが、学問をしている人に対して書かれた編であるとのこと。事実、学者の在り方に対して批判している編なんですね。だから、言葉も難しくしているが、許してね笑、といっております。

基本的には、一般民衆への啓蒙本です。なるたけわかりやすく書いているとのこと。でも、現代の人間からすれば難しいですね。

本書は重版を重ね、海賊本も出回ったほど。本人の語るところによれば、340万部は売れた。当時の日本の人口3500万。現在の人口で数えるに、1200万部売れたということに。

100万部売れただけでも、大ヒットでしょう。それが1200万部。

この時すでに国民的作家であった福沢先生。洋学者であり、英語を筆頭に、物理学・科学・哲学・経済学などあらゆる学問に精通した知の鉄人です。

今回は、私が独断と偏見で選んだ、『学問のすすめ』の名言集を取り出し、超口語的に解釈しながらわかりやすく紹介したいと思います。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の意味とは

ものすごーく有名な言葉。しかし、一体どんな意味なのか、浅学な私は知りませんでした。この文言は初編(1編)の冒頭にあるんです。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、(略)されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲とどろとの相違あるに似たるはなんぞや。(略)されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。 初編

福沢先生が言いたいのは、人間は生まれながら平等であるということ。まあ、実際は違いますが笑。

福沢先生は士族であっても、下級武士。幼少時から勉強はできても、出世は望めなかった。だからこそ、身分制に対して深い憤りを持っていた。

それが”天は人の上に~”という、人間はみな平等だという主張につながります。また、二編にて述べているところによれば、これはright(権利)でもある。平等権のみならず、所有権、人格権など基本的人権のことを指しています。

福沢先生は、金持ちの何千万もの大金も、貧乏人の数百円のお金も、自分のものとしてこれを守る。所有権を主張するのは認められる。そんな風に、基本的人権はすべてのものに与えられていると説明します。

また、学問とは儒学などの古典あるいは和歌や詩ではなく、洋楽のこと。

つまり、経済学・数学・英語など。幼くても頭の良い子には、日本語の読み書き、そろばんのみならず、英語の勉強も早くからさせよとも説きます。

しかし、学問をして出世せよ、という教えではないんです。福沢先生は、ただ勉強していても無意味。学問によって身を立てることをしなくてはならんといいます。これを独立といいます。

実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。 初編

独立とは、狭くとらえると、経済的独立のこと。しかし、福沢諭吉先生のえらいところは、この独立には国民精神の確立も含めているんですね。

基本的人権を守るためには 桶狭間の戦いと普仏戦争の違いとは!?

福沢諭吉先生は、独立という言葉に国民精神(ナショナリズム)の確立も含めているんです。

独立とは、基本的人権が与えられていることを自覚し、またその権利を守るためには自ら戦わなくてはいけないということ。当時の国民に対して、そう諭しているんです。

織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った。この時、信長が奇襲戦法で義元の首を取ったとき、義元らの軍勢はみんな逃げ出した。

しかし、フランスとプロイセン(ドイツ)との戦いでは、ナポレオン3世が敵国にとらわれても、フランス国民は徹底して戦った。この違いは、国民精神にあると喝破します。

駿河の人民はただ義元一人によりすがり、その身は客分のつもりにて、駿河の国をわが本国と思う者なく、フランスには報国の士民多くして国の難を銘々の身に引き受け、人の勧めを待たずしてみずから本国のために戦う者あるゆえ、かかる相違もできしことなり。これによりて考うれば、外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり。 三編

義元の家来たちは、「おれたちは義元様に雇われているんだ。義元様が倒されたら、もうおれっちには関係ないもんね笑」といって逃げ出した。福沢先生は、これを「客分」であると非難します。

つまり、自分がこの国の主人であるという気概(プライド)を持っていないんだと。これでは外国との戦争に勝てないよ。そんなことでは、自由独立=基本的人権などすぐ奪われちゃうよ。身分の上下なく、

「おれっちが、この国を外国から守るんだ。この国で自由に生きるためには、国を守る責任がおれっちにあるんだ」福沢諭吉先生は、独立ということばに、経済的独立のみならず、自分がこの国の主人の一人であると考え、自由独立を保つためにも一命を賭して戦わねばならんことの大切さを説きます。

いやぁ、感動しましたね。わたしは、福沢諭吉先生は、ただ基本的人権を訴えただけの人かなと思っていました笑。まったく違う。とてつもなく合理的で、現実主義的な思想の持ち主

戦後日本の反日学者とは違って、弱肉強食の国際社会の現実をしかと受け止めている。

当時の国民に対し「お前たちはいまだに封建時代の住民だ。権利だけいっちょ前に与えられているだけ。国のために死ぬ覚悟のないやつは、どうしようもない。国民じゃない。人として半人前だよ」という。

この三編は明治6年、1873年出版です。

戦後日本の民度(文明の進歩の程度)は、幕末の江戸時代以前に逆戻りしている。当時は、まだ士族階級が存在していたわけですから、国のために死ぬ覚悟を持った人間はゼロではなかった。が、現代ではどうでしょうか。

悪いのは、政府ではなく、愚民であるあなたがた人民だよ

もうお分かりになったかと思いますが、福沢諭吉先生が『学問のすすめ』で言いたかったのは、この点にあります。国民としての意識が足りていないと叱っているんです。

四編には、当時の日本人を”愚民”と言います。全編にわたって、日本の民衆を”愚民”扱いしています。これは腹が立ったんじゃないですかね、当時の日本人は笑。

「全員がそうではないけれど、気風、スピリットは卑屈不信のきわみだよ」ともいいます。いっぽうで、福沢先生は、当時の明治政府を大絶賛しています。しかし、国民が愚民だから専制的な政策もしかたなく採っている。悪いのは、政府ではなく、愚民であるあなたがたよ。ちゃんと認めなさいね、自分たちの非を。そこまで言う。

日本にはただ政府ありて未だ国民あらずと言うも可なり 四編

上記のように、断言しています。政府の力と国民の力を合わせなくては、日本の独立はならんよ。

人民は国の主人である もし政府に不満があれば、穏やかに言えばいいんじゃないの?

国民主権という言葉。戦後日本でいきなり出てきた言葉ですが、福沢諭吉先生は同じ意味の言葉を1870年代にもうすでに主張しています。

主人の身分をもって論ずれば、一国の人民はすなわち政府なり。そのゆえは一国中の人民悉皆しっかい政をなすべきものにあらざれば、政府なるものを設けてこれに国政を任せ、人民の名代として事務を取り扱わしむべしとの約束を定めたればなり。ゆえに人民は家元なり、また主人なり。政府は名代人なり、また支配人なり。 七編

政府は、国民の名代である。名代とは代理のことですね。基本的人権を守らせるには、国民ひとりひとりが税金を納め、政府に任せたほうが効率的だ。

夜盗強盗に遭うこともなく、一人旅で山賊に襲われることもない。自分で自分の身を守るのではなく、警察に任せよう。なんと便利ではないか。

人民は、国の家元であり主人なんだ。最初から政府に国を任せて事務をさせるという約束をする。もし役人が悪さをした場合は、賠償金を払うこともあるだろう。治安、インフラなどで得をすることもあるだろう。両方ともに国の主人である国民が引き受けねばならんよ。

ただ自分が損をしたときだけ、役人らに不平を言うのはだめだよ。ちょっと、わがままなんじゃないの。もし政府のやり方に不安を感じたら、親切に遠慮なく、穏やかに言えばいいんだよ。絶対、暴力的手段に訴えてはいかんよ。

おわりに:福沢諭吉先生がもっとも伝えたかったことは

もちろん全編にわたって、学問の意義について触れています。

たとえば、十二編でも、「勉強しても役立てないと意味がない」「学問は読書だけではだめだよ。観察し、道理を研究する。本を読み、自分でも書いて、人とも議論し、演説もする。学問をやるってのは、こういうことだ」とか。

十五編では、「ただ西洋の学問を信仰して受け入れるという姿勢ではダメだよ。簡単に信じてはだめ。懐疑的な精神こそ大事。病的な西洋信仰をする者がいるが、そんなのは西洋人の猿真似。それではだめだよ」という文言も。

学問にとっては、懐疑的な精神が大事。先行研究をうのみにせず、たえず批判的に臨んで、新しい理論や再解釈を試みる。学問の基本的姿勢ですね。

自分の気に入らない歴史解釈に対しては、「そんなのは歴史修正主義だ!」と批判する戦後日本の学者にとってはまことに耳が痛い。

『学問のすすめ』の面白いところは、人の生き方、人生哲学に関しても興味深い文章が多いということ。

「ちゃんとTPOをわきまえよ!」とか、「志のみが高く、実際の行いがまったく見合っていない人。そういう人は世間に対して不平不満を言う。おれっちの能力に見合わない仕事ばかりよ。そういう人は他人に嫌がられて、孤立するよね」とか。

「クソリプなんかしないで、自分もまとまった文章を書いて反論しなさい」「他人の商売が下手やなと思うんであれば、自分も同じ商売を実際にやってみなさいよ」みたいな記載もあります笑。

他人のやっていることに口出ししたいのなら、自分もやってみなさいよ、ということです。

他人の働きにくちばしれんと欲せば、試みに身をその働きの地位に置きてずから顧みざるべからず。 十六編

なかなか面白いんです。私も読んでいて、「的を射すぎていてつらいわ(泣)」となったところが多々あります。

最後に、福沢諭吉先生が『学問のすすめ』でもっとも言いたかったこと。

学問は独立のためにすること。独立とは、経済的独立のみならず、自分こそが国の主人であるとの自覚を持ち、国民精神を涵養し、外国勢力から基本的人権、自由独立を守るために気概をもつこと。

ただ単に平等主義を説いただけの著書ではまったくありません。福沢諭吉先生が明治初期の日本人に叱ったこと、啓蒙したかったことは、卑屈にならず国民精神(ナショナリズム)を持てということ

私たち戦後日本人は、民度のレベルでは江戸時代まで退行したことを自覚し、『学問のすすめ』を再読しなくてはならないのではないでしょうか(了)。

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