全体主義という言葉は、マスメディア含め、憲法学の教科書にもよく出てきます。
メディアも学者も「お前は全体主義者ではないか?」「全体主義的な意見ではないか?」
そのように批判されることをもっとも恐れております。また一方で、感情的に、具体的な意味もよくわからず使われている現状があります。
こちらの記事では、特に憲法学での「全体主義」の使用例をもとに、この意味不明瞭な言葉の正体を解明していきたいと思います。
「全体主義」はナチス憎しというただの悪口
一言でいいますと、全体主義とは、ユダヤ人の女性学者ハンナ・アーレントがナチスドイツを否定するために作った言葉。
ユダヤ人でナチスドイツと闘った女性学者がいたんだな。そんな認識で構いません。
自分の私的な感情をもとに学術論文を発表することに疑問を感じますが、戦中は学会も戦争協力を求められ、こういう「研究」が出てくるのは自然な現象。
日本をレッテル張りするために、国家の御用学者として「菊と刀」を書いたルース・ベネディクトもそう。
※ベネディクト本人は、弟子たちにはこの著書を読まないようにと忠告していたらしいです。
結論を言えば「全体主義」という言葉はナチスドイツに対する単なる悪口です。
反日主義学者にとって「全体主義」は使える言葉!?
ですが、世界で唯一日本の学者は、いまだこのいい加減な言葉を大切にしています。
日本は敗戦後、反日主義思想を持つ、共産主義・社会主義系の学者が学会を支配し、いまだに言論空間に対し大きな影響力を持ちます。
そんな彼らにとって、全体主義は非常に”価値のある言葉”でした。全体主義の言葉の解釈の悪用です。この「全体」に焦点を当てて、
現在、全体主義は、個を捨てて、滅私奉公する、全体の利益のため自己犠牲することを悪しざまにレッテル張りするために使われています。
しかし、自己犠牲精神はキリスト教の世界観でも最高の徳の一つ。あらゆる国家・宗教において、自分ではなく他人や社会を優先にするのはほめられることです。
日本でもそうであり、この精神がある限りその国の将来は明るいでしょう。
だからこそ、反日主義思想を持つ戦後日本の学者は、この言葉は「使える!」と感じました。
「国のために自己を犠牲にして戦う」、全世界のあらゆる国が持つべき一定のナショナリズム。
このナショナリズムを戦後日本に根付かせないために使える!と判断しました。
日本の憲法学のテキストを少しのぞいてみましょう。有名な憲法学の本から引用します。
「全体の利益」を肯定できない日本の憲法学者の苦悩とは
公共の福祉を全体主義的な思想を基礎にした「全体の利益」という意味に解することは許されないのはいうまでもない。戦時中にいわれたような国家のための「滅私奉公」というような考えは、日本国憲法の下では許されない
このようにまず「全体の利益」とカギ括弧がつけられます。
ある個人の人権を制限することにより、多数の個人の、人権とはいえないにしても重要な利益が、実現されるというような場合(たとえば街の美観を保護するために看板の規制を行う場合を考えよ)、ある程度までは人権制限が認められてもよいであろう。もちろん、その「重要な利益」は、個人を超えた「全体」の利益であってはならず、あくまでも個々人に着目した利益でなければならないし、(中略)
おそろしく、不自然な文章です。多数の利益=全体の利益ではないでしょうか。
しかし、全体の利益は、全体主義で否定されており、この学者は使うのを非常にためらっているのです。
いちいち「全体」とカギ括弧を使うのは、この言葉の使用にまったく自信がないためです。
ですが、「全体」という言葉にここまで強くこだわりがあるのなら、テキストの他の部分で全体の定義を明確に記述する義務があります。
しかし、著者自身も漠然としたイメージで全体主義という言葉を使用しているため、その説明が出来ません。
戦前、全体主義的な公益概念により「滅私奉公」を強要されたことを考えれば、公共の福祉を不用意に漠然とした「公益」と捉えると、同じ轍を踏みかねないから、人権間の矛盾・衝突と厳格に捉えておくのがよい、と考えたのも納得できる
この文章も、「全体主義的」なという表現が悪い意味で、それも特に具体的な説明もないまま使用されていることがわかります。
戦前の個人をないがしろにする戦後日本の憲法学者たち
「戦前、全体主義的な公益概念により『滅私奉公』を強要された」
さきほどの憲法学のテキストからの引用文です。
戦争に出兵した、戦前の個人をこれほど差別した発言はほかに聞いたことがありません。
自分の命を懸け、家族や自分の近しい人たちの命を守るために戦争に出兵した、自己犠牲の精神をもった方々。日本のみならず、諸外国においても最も尊敬されるべき存在でしょう。
「それはお前の意思ではなく、強要された結果だ」と言われるのですから。
このテキストを書いた学者はいたる所で個人の尊重や個人の利益を守ると主張しているのに、戦前においてはその「個人」を決してみようとしません。
公共の福祉とは、全ての国民を平等に「個人として尊重」するために必要となる調整原理あるいは公益とぐらいに捉えておけばよいであろう。もちろん、その場合の「公益」は、戦前のような個人を超越した全体の利益であってはならないが、(中略)
「戦前のような個人を超越した全体の利益」とは一体なんでしょうか。全く理解できません。
しかし、この反日憲法学者はまだ良心的です。個人を超越していない全体の利益は大切だと主張しているので。
やはり全体の利益と言うものはあるんじゃないだろうか…という風には思ってはいるのです。
しかし、「全体の利益が大切だ」と、戦後日本の言論空間では書けないからどうしようかと悩んでいる姿がわかります。
憲法学者は考えないが、個人は侵略戦争からも守られるべき
日本国憲法第13条「すべて国民は個人として尊重される」私もこの条文は全く否定しません。
しかし、戦後日本の憲法学者が見落としている点があります。
国民は国内からも守られるとともに、国外からも守られねばならないということ。
国内と国外、両方から守られなくては、精神的にも経済的にも自由で豊かな国民一人ひとりの生活は守られません。
憲法学のテキストの「個人の尊重」は、国内からのみ守られるということです。
ならば、国外から守られるというのはどういうことなのか。
国外からの危険に対処できない日本国憲法は欠陥品
国家の存在理由とは、第一に外国の侵略行為から自国民を守ること。
過去の歴史に学べばわかる通り、我が国に大日本帝国という近代国家が生まれた理由は、私たち日本人の生存のためでした。
対外諸国からの侵略行為から自分たちの身を守るために近代的国家を作りました。国外から守られてこそ、国内問題を考えられるのです。
いざ諸外国からの侵攻があったとき、憲法はそれら危険をきちんと想定し、対処すべく作成されている必要があります。
その危険に対処出来ない憲法であれば、欠陥品であります。
そして、滅私奉公、自己犠牲の精神はどこの国でも常に必要です。
諸外国から自らを防衛するため、国民一丸となって戦争に参加し、戦い、勝利に導かなくてはいけません。つまり、諸外国と戦う国民精神の涵養。
自国政府は、そのための国民精神を、ナショナリズムを教育などで国民に与えておく必要があります。発達心理学における、幼少期に子供に学ばせる他律と同様。
その後、思春期・青年期を経て、国民自身もその必要性を自分たちで理解する必要があります。これを自律といいます。
まとめ
イメージ先行で「全体主義」という言葉は使用されております。
北朝鮮は米国に対し「全体主義国家」と言い、米国もまた北朝鮮に対し「全体主義国家」と罵倒します。
両国とも全体主義という言葉の本質をつかんでおり、もはやたんなる悪口でしかないということです。
ある日本の憲法学者は、全体主義=全体の利益のために滅私奉公すること、と定義しています。
しかし、これでは日本以外の諸外国は、すべて全体主義国家になりりますし、日本も当然全体主義国家を目指さなくてはいけなくなるでしょう。
全体の利益のために、個人を犠牲にする。これはあらゆる国・宗教で最高の徳とされているものです。もちろん、戦後日本でもそうであるはずです。しかし、反日思想を持った左派の学者が現在も日本の学界を牛耳っており、
彼らに逆らう研究をすれば学会から締め出しを食らうという恐怖が、常に戦後日本の学界にあります。
学会は非常に狭い世界であり、皆が親戚みたいな人間関係にあります。政治家と同じで、「2世教授」や「3世教授」というのもざらです。
だからこそ、先行研究を批判的に乗り越えるのではなく、それを補強するだけに留まるような状態に陥ります。
マスメディアも含め、日本の言論空間をむしばみ続けている全体主義からそろそろ抜け出すべきではないでしょうか(了)。
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