教科書検定は、実質的に国の検閲であり、国が教育内容に介入するものであるから違憲である。そのように裁判所に訴え、闘争を起こしたのが教科書検定事件です。
もうこの時点で難しいですよね笑。
そもそも違憲とは「なに」が「どこ」に違反しているのか。教科書検定とは具体的にどういうものか。なぜこんなに反日主義的な教科書はかりなのか。
文科省と出版社は”中韓のスポークスマンかい!”もはや疑問だらけです笑。
こちらの記事では、上記の疑問の一つ一つに答えながら、教科書検定に対する裁判所の判断、検定基準の問題点(いわゆる近隣諸国条項など)、学校の教科書の記載=国の公式見解なのか。まとめてみたいと思います。
教科書検定は、憲法の「どこ」に違反しているのか
「教科書検定は、国の検閲であり違憲である」とは、憲法21条で禁止されている検閲に当たるという指摘です。※憲法21条は表現の自由を定め、第2項に検閲の禁止を規定しています。
検閲の定義は、一応、最高裁判例の見解を確認しました。
憲法21条2項にいう検閲とは、行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるものを指すと解すべきである。
引用元:最高裁判所第三小法廷判例/平成5年3月16日/民集第47巻5号3483頁
簡単に言うと、国が危険とする思想内容を、発表前に禁止すること。まあ辞書的な意味と変わりませんね。
「国が教育内容に介入することは違憲だ」という主張もありました。これは憲法26条違反を指します。憲法26条は教育を受ける権利、また受けさせる義務(義務教育)を規定したもの。
まとめると、教科書検定を違憲とする主張は、検閲に当たるから憲法21条違反。あるいは、国の教育内容の介入となり、国民の教育を受ける権利を侵害しているので憲法26条違反。この2点です。
裁判所は、検定は合憲であると判断
裁判所は、原告の主張を全面否定。検定は検閲に当たらず、憲法21条違反ではない。国の教育内容の介入でもなく、憲法26条違反でもないとの判断。
以下に、最高裁判例を、口語的にまとめますと、
検定は、図書の発行自体を妨げていないよ。つまり、教科書としては認められていなくとも、本屋さんで売るのは認めている。発表禁止目的や発表前検査などの特質もないよ。だから、検閲には当たらないんだ。
憲法21条1項にいう表現の自由も、無制限に保障されないよね。公共の福祉によって合理的で必要やむを得ない限度の制限を受けるものだ。特に義務教育の場なんだから、ある程度の水準の教科書を用意しないといけないよね。でないと、都道府県あるいは住んでいる学校区によって、不公平にならない?
教科書は、各自治体の教育委員会がそれぞれ自主的に決めています。
だから、不適切な教科書は制限してもいいよね。これは憲法21条に違反しないのだ。
表現の自由も公共の福祉の制限を受けるということですね。義務教育で一定の水準の学習を受けさせる立場にある政府が、ある程度の決定権をもつのは認められるとも。
憲法26条違反に関しても、まあ口語的に記述すると、次のような感じです。
憲法26条は、教育内容に関しては書いてないよ。だけど、社会的に自立するためにもある程度の教育内容は決められるはず。とはいっても、教育内容への国の介入はできるだけやめてね。誤った知識や一方的な考えを子どもに植え付ける内容の教育はぜったいダメ。
裁判所は”教育内容への国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請され、(略)誤った知識や一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことを強制することは許されない”と述べています。
最高裁判例の”一方的な観念”をどう解釈するのか。ここが肝心です。検定基準に関わる部分ですよね。
※超口語的に訳してみました。原文を読みたい方はぜひこちらをどうぞ。最高裁判所第三小法廷判例/平成5年3月16日/民集第47巻5号3483頁
裁判所は、国が教育内容に介入することに絶対禁止!?
裁判所の姿勢はかたくなです。昭和45年の判例も確認してみたいと思います。こちらも、超口語的に訳すと、
憲法26条は、最低限の生活を定めた憲法25条の担保だよね。子どもの教育に対して、親が第一の責任を負うもの。国はその手助けをするだけ。国が教育内容に介入することはダメ。
平成18年に全面改正された教育基本法では、家庭教育として第10条を新設しました。1項で、”父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するもの”とし、2項で”(国は)家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない”としています。
ちなみに教育基本法(教育の憲法)は改悪されたと言われますが、裁判所の判例を取り入れているだけなんですよね。
研究者らは、自由に教科書を執筆し出版できるよ。検定の審査も、執筆者の思想内容に及ぶものでない限りは検閲でないよ。
ですが、裁判所の主張する「思想内容」がよくわかりませんね。右翼的であれ、左翼的であれ、なんでもOKになるはずです、本来であれば。
できるのは教育課程の助言くらい。権力的介入はダメ。検定審査は、誤記・誤植。客観的に明らかな誤り、読みやすさとか、教育課程の枠内とか、その程度だよ。
教育課程とは、学校教育の目的達成のため、教育内容を児童生徒の心身の発達に応じ、授業時数との関連において総合的に組織した各学校の教育計画のことです。ぶっちゃけていえば、授業時間を算数は〇〇時間にするとか。学習指導要領にある程度の基準が示されています。学校の先生方は、これを参考にしています。
※超口語的に訳しました。原文に触れたい方はこちらをどうぞ。東京地方裁判所/昭和45年7月17日/検定処分取消訴訟事件
国は、歴史教科書を監督できない
国の教科書検定は決して”教育内容の介入”を許されず、大した権限を持っていないという印象を受けます。
実際、執筆者の思想内容に対して疑義を呈することは認められていません。歴史とは、無数の事実から、執筆者の意に沿うように事実を断片的につなぎあわせて作られます。
たとえば、日本人は悪いことをした。そればかりを書くことだってできます。朝鮮人や中国人、米国人もたくさんの日本人を虐殺したことなんか書かなくてもいいわけです。
どちらとも書けば、「どっちもどっちやないかぁ」となりますが、一方だけ書くと、「日本人はほんとに悪い連中だな。許せぬ!」となるわけです。
でも、そういう書き方は認められているんですよ。ちなみに、言葉のチョイスも思想内容に影響を与えますよね。
新聞社は、「新聞の見出しだって著作権がある。記者が推敲に推敲を重ねた言葉だ。勝手に使えば著作権侵害!それと、報道内容だって、著作権があるんだよ。わかってる?いろんな事実をつなぎ合わせて書いているんだ。記者の魂がこもっているんだよ」みたいなことを言います。(参照元:ネットワーク上の著作権について 一般社団法人日本新聞協会)
実際に、戦後日本の歴史教科書はどのようなものか。
日本は至る所で「侵略」をしまくったと書く一方で、米国は「進出」をした。日本は多数の戦争犯罪を犯して、多くの戦争犯罪人が国際法廷で裁かれた。米国は原爆を投下した。でも、戦争犯罪なんて言わないよ笑。だって、米国人は裁かれていないもんね~。
頭に来ますが、上記のような書き方を戦後日本の歴史教科書はしてきています。
では、教科書検定、具体的には文科省の教科書検定基準ですが、裁判所がもとめたように「中立・公正」であり、一方的な観念(歴史観)を植え付けるものを”はじいてる”のでしょうか。
まったくそうではありません。検定基準には、なぜか近隣諸国条項というものがあります。
客観的事実よりも中国・韓国国民の「気持ち」を優先しましょうというもの。ぶっちゃけていえば、国の教育内容への介入は認めないけど、中国・韓国の介入は認めますというものです。
近隣諸国条項は、裁判所の判例から考えると、明らかに許されるものではありません。
次回は、近隣諸国条項含め、文科省の検定基準を検証していきたいと思います(了)
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