日本国憲法の成立過程において、常に問題視されるのが「8月革命説」です。
日本国憲法を有効と説明した「8月革命説」は、自己保身に駆られた戦後憲法学者の第一人者、宮澤俊義氏の”変節”によるものと一部では厳しく批判されます。
宮澤氏は当初、憲法改正はありえないと主張していました。
しかし、占領軍による公職追放や投獄の恐怖から態度を180度変えてしまったのです。
こんな主張をしていたら、宮澤君も米占領軍に投獄され、殺されてしまうよ
これをきっかけに、宮澤氏が提唱したのが「8月革命説」。
つまり、「革命」が起きたことで憲法改正がなされたのである・・・と。米占領軍に媚を売ったのです。
革命とは、法的安定性を第一とする法学からもっともかけ離れた言葉であり、国民が内から反乱を起こすもの。
米軍に占領されたこと(敗戦)=革命というのはおよそ理解しがたいでしょう。
が、いまだに日本の多数の憲法学者は”やんわり”と支持する姿勢を見せております。
実は、そもそも積極的な有効論を主張する憲法学者は存在しません。
少数派の無効論者に対して法的に反論することもしません。今げんざい現行憲法が機能しているからそれでいいのでは、とやんわり有効論を主張する姿勢です。
これを「やんわり有効論者」と呼びたいと思います。
しかし、宮澤氏の弟子である憲法学者・高橋和之氏は、この8月革命説を
「日本国憲法の成立を法学的に説明する法理」とまでだいたんにも述べております(高橋和之氏著『立憲主義と日本国憲法』〔有斐閣〕)。非常に疑問です。
他にも疑問点として、8月革命説と表裏一体となっているのがポツダム宣言の解釈。
8月革命はポツダム宣言受諾により、国民に知られずにひっそりと行われていたと解釈します。
革命であるにもかかわらず、国民に内緒でひっそりとおこなわれる・・・のですから、すでにおかしな印象を受けます。
この記事では「やんわり有効論者」の主張を中心に、はたして「8月革命説」なるものを認めるべきなのか。問題点とともにわかりやすく解説していきます。
ポツダム宣言は憲法改正を要求していた!?
ポツダム宣言とは、日本が45年8月14日に署名し連合国と結んだ、国際条約の一つです。
国際条約(国と国との約束事)ですから、日本のみならず、もう一方の当事国である連合国側もこの国際条約を遵守する義務が発生します。
ポツダム宣言第13項においても、この宣言を受け入れるか否かは”日本政府の誠意”によるとあり、強制ではなく日本側の意思により条約締結がなされました。
憲法改正要求など、誰も予想していなかった・・・
ポツダム宣言で、日本側に要求されたことは、
①世界征服を行おうとした軍国主義者の追放②日本国軍隊の完全武装解除とその戦争遂行能力の破砕③対外領土放棄④戦争犯罪人の処罰⑤民主主義的傾向の復活強化⑥実物賠償を含む賠償金の支払いと再軍備のための産業禁止、以上の6点でした(ポツダム宣言条文〔国立国会図書館〕)。
憲法改正要求が含まれていないことは明らかであり、米占領軍の代表であるマッカーサーも同様でした。
大日本帝国憲法改正要求は、実はGHQの○○法違反
ですが、GHQ側は大日本帝国憲法改正を要求し、ポツダム宣言での日本側の義務以上のことを求めてきたのです。
検閲もそうですが、GHQ側の明らかな国際条約違反です。たとえば、検閲は、ポツダム宣言で要求された民主主義的傾向の復活と逆行するものです。
この点に関し、やんわり有効論者の一般的な意見は、
ポツダム宣言第12項は、国民意思による平和的政府の樹立/国民主権原理の採用を要求していたので、明治憲法改正はやむをえなかった
あまりに厳しい言い訳です。
また、
第10項の民主主義的傾向の復活強化とは、明治憲法の改正が必要だった
という説明。
ポツダム宣言第12項を以下に記載いたします。
12項 前記諸目的が達成され、かつ日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立せらるるにおいては、連合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし
この第12項にそこまでの意味を見出すのは明らかに不可能でしょう。
第12項は占領後、いつ撤収するのかを明示的に記載しただけで、日本側の義務に関しては”前記諸目的”が一応その部分にあたります。
※占領した場合、占領軍の撤収時期を記載しておくという、一般的な条文ですね。
ましてや”日本国民の自由に表明せる意思”とあるにもかかわらず、それを要求することができるというのです。軍事力を背景に要求されたものが、果たして自由に表明せる意思と言えるのでしょうか。
当時の日本政府側の誰もが「連合国にそのようなことを要求する権利などない」と考えていました。
ですが、戦後になると、日本では”やんわり有効論者”たちが、「実は第12項にそのような義務が存在したのだ」と主張するようになりました。
「このままでは米軍に殺されてしまう・・」宮沢氏の変節と8月革命説
疑問点は、憲法改正など不要と主張していた宮澤氏が、いつ態度を変えたのか。
また、宮澤氏が主張する8月革命説の中身だと思います。
日本全国がGHQの強制収容所に・・・宮澤氏が態度を変えた背景とは
当時の日本は占領下にあり、GHQは東京裁判をはじめ戦犯狩りを行いました。
帝国議会議員や政府関係者、日本軍人はその恐怖の中で日々を過ごしておりました。
46年1月4日に出されたGHQの公職追放により、まず8割もの衆議院議員が追放され、4月の総選挙への出馬資格も失ってしまいました。
正常な選挙を行わせない、これも民主主義に対する挑戦であり、米軍のいう民主主義的傾向の復活などただの絵空事であったことがわかります。
総選挙後も、議員追放は行われ、7月中旬までに大物議員を中心とした20名近くの衆議院議員と169名の貴族院議員が追放されます。
選挙で国民の民意により選ばれた議員を、その後追放するのです。もはや当時は民主主義など存在しません。米軍による強権的支配のみが存在する時代でした。
東京裁判は”勝てば官軍”といった戦犯裁判も同時進行しておりました。
彼ら議員の中には、自分たちもいつ議員を追放され、裁判にかけられ死罪に問われるか分からない。常にGHQ側に人権はおろか、生命さえもにぎられた上での「自由な審議」しか行えないわけです。
宮澤氏も学者としてのプライドを捨てて、自分の命を守るという選択をしたのです。
※当時の憲法学者の中には、元枢密院議長であり憲法学者でもあった清水澄博士。清水博士は、抗議の意味を込めた入水自殺をされました。立派な方もおられたことを記載しておきます。
宮澤氏が考えたのが、8月革命説でした。
「米軍様、どうか私を殺さないで・・・」宮澤俊義氏の「8月革命説」
欽定憲法である明治憲法から、国民主権による民定憲法である現行憲法への改正は理論的に無理があります。
欽定憲法とは、君主制の国家のもの。民定憲法とは、共和制の国家のもの。天皇という君主が存在する日本が、共和制の国家の憲法など採択できるわけがないのです。
が、ポツダム宣言第12項は、日本側に国民主権を採用した憲法制定の要求を含んでいたのであり、
ポツダム宣言を受け入れた時点(8月の時点)で、そこに「法学的な革命」が生じ、憲法制定権が君主から国民へと移ったのだと、8月革命説は主張しております。
明治憲法の改正という形式にしたのは、”混乱を防ぐための便宜的措置”でしかなく、それはつじつまが合わないわけではないのであるとも。
これが宮澤が提唱した「8月革命説」です。
このポツダム宣言に国民主権というのも、実は宮澤氏が考えたものではありません。
GHQ側が「国民主権」という言葉を現行憲法に入れろと要求したのが経緯です。ですから、米軍の意向にそうように、
「そうです。そうです。ポツダム宣言は、憲法に国民主権をベースにした憲法改正を要求しておりました。私もすっかりその事実を忘れておりました!」と米軍に媚を売りました。
積み重ねられる虚偽の物語|議会での自由な審議・修正という嘘
下記に記載する文章をそのまま読んでみてください。占領下の日本で、GHQが日本の学校に配ったものです。
こんどの新しい憲法は、日本国民がじぶんでつくったもので、日本国民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。この国民ぜんたいの意見を知るために、昭和21年4月10日に総選挙が行われ、あたらしい国民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。それで、あたらしい憲法は、国民ぜんたいでつくったということになるのです
※戦後最初に日本の教科書が現行憲法の成立について記した、昭和23年度中学校社会科第1学年用教科書、文部省著作『あたらしい憲法のはなし』に上記の記載があります。
きわめて異様な記述で、当時占領下の日本で作られた教科書が、いかに奴隷の言葉で記載されているのかを後世に伝えてくれる傑作と言えるかもしれません。
米国がどれほど新憲法制定に対し神経をとがらせていたのか、また米軍自身が自分たちのやったことに対し「これは無理があるよなぁ」と素直に実感していたこともよくわかる文章ですね。
あたらしい憲法は日本国民がじぶんでつくったもの、、は絶対に必要
占領下の日本では、GHQの検閲が行われ(民間検閲支隊CCDが担当)、日本国憲法とその成立過程に対する批判は、連合国軍批判とともに禁止対象となっておりました。
当然議会での審議・修正も常にGHQが管理・監督し、その意向には全く逆らえませんでした。
しかし、「国民ぜんたいで自由につくりました」という虚偽は、8月革命説にとって絶対に必要でした。
もしGHQが憲法案を作成し、日本政府に押し付けたとしても、その後議会で自由に審議・修正が出来るのであれば、
それは日本国民があくまでも選択肢の一つとして与えられたGHQ案を、自分たち自らの選択で選んだという説明が出来るわけです。
ですから、これで国民主権による民定憲法として成り立つものと主張できます。
議会で自由な審議・修正が行えたと虚偽を重ねていく宮澤
ポツダム宣言のこじつけ解釈により自己保身をはかった宮澤氏は、その後、「議会で自由な審議・修正が行えた」とまた虚偽を重ねていくことになります。
もしこの自由な審議・修正が成立しなければ、民定憲法としての現行憲法がおよそ成り立たなくなります。
その後、宮沢氏の弟子らは憲法学のテキストで”自由な議会審議・修正が行えた”と虚偽の記載をし、
また小中学校の公民教科書や歴史教科書も、昭和23年度に出版された「あたらしい憲法のはなし」同様に虚偽の物語を書き連ねていくことになります。
現在も、国の教科書でも現行憲法の成立過程をごまかした記載をしております。
日本政府も日本国憲法成立の問題点を隠したい!?
たとえば、扶桑社の『新しい公民教科書』平成18年度版の申請本は、次のような記述をして検定過程で削除を余儀なくされました。
政府は英語で書かれたこの憲法草案を翻訳・修正し、改正案として帝国議会に提出した。審議は4カ月におよんだが、修正点についてはすべて連合国軍の許可と承認が必要とされた
戦争に勝った国が負けた国の法を変えさせることは、国際法によって禁止されている。加えて、日本国民が自分の意見を自由に表明できない占領中に、日本国憲法が制定されたという事実などが、憲法をめぐる論議のもととなっている
これらの記述は教科書検定ですべて削除です。
この実態に関し、憲法無効論を主張する小山常実氏は、
基本的には日本側が自主的に作った有効憲法に作り替えんとするために、国家ぐるみで歴史偽装しているのである
と述べております(小山常実氏著『憲法無効論とは何か―占領憲法からの脱却』〔展転社〕参照)。
現状、日本政府も日本国憲法を無効であるなどと認識しておりません。
しかしながら、もしその成立過程を正しく記載すると、必然的に国民の中から日本国憲法に関し疑義が提出される可能性は大いにありうるでしょう。
国の最高法規がはたしてこれでよいのかという疑問です。日本政府は、その政治的インパクトを処理しきれる自信がないということでしょうか。
まとめ
”変節学者”宮澤俊義氏が提唱した「8月革命説」はポツダム宣言(国際条約)のこじつけ解釈に始まりました。
法的安定性を基本とする法学的理論に対し、なんと「革命」を結び付けた世界に類例がない理論。
GHQによる検閲含む言論統制下の中で自由な議会での審議・修正など当然行えなかった事実。
しかし、日本国憲法を「日本国民ぜんたいでじぶんたちで自由に作った」とまた虚偽を重ねていきます。
8月革命説は虚偽の上に虚偽を重ねた、およそ成り立たないものでした。
宮澤氏の弟子である高橋和之氏は、これを「法理」と言いますが、実際はきわめて「政治的なもの」です。
日本政府をはじめとして、日本国憲法の成立過程を正しく理解し、一日も早く日本国憲法憲法が有効あるいは無効となるかという点も含め、この国が正しい道を歩むことを切に願います(了)。
60秒で読める!この記事の要約!(お忙しい方はここだけ)
- 8月革命説と表裏一体をなしているのがポツダム宣言である。そのポツダム宣言に関し、当時は、戦後憲法学者の第一人者、宮澤俊義氏を含めた誰もが憲法改正要求が込められていると考えてもいなかった。
- その後、東京裁判など戦犯狩りの恐怖に直面した宮澤氏が、GHQ側の要求に応えるべく生み出したのが8月革命説。すなわち、助命嘆願である。ポツダム宣言第12項に国民主権採用の意義を見出し、ポツダム宣言受諾後、憲法制定権が君主から国民に移行していたのだと説明した。
- しかし、それでも議会による自由な審議・修正が行われる必要があり、それなくば国民主権による民定憲法などと言えなくなってしまう。そこで、実際はGHQの管理・監督の下に成立した過程を、議会では”自由な議論・修正が行われた”と虚偽を重ねていく。
- 戦後は憲法学会だけではなく、日本政府も検定制度で真実の成立過程を記載した教科書の記述を削除してしまう。国家ぐるみで現行憲法のいかがわしさを覆い隠す道を突き進んでいる。たしかに日本国憲法の廃止論にもつながる大事件であり、隠したいという事実もわかる。しかし、これで本当によいのであろうかという疑問は今後も絶えないだろう。
コメント